夫セミナー2007

①「あばら骨の叫び」(垂穂キリスト教会:桐山塁)
②「妻を尊敬する」(下諏訪キリスト教会:清野基)

はじめに

このメッセージは2007年10月に山中湖リセスにて行われた「夫セミナー」のものです。夫婦関係においては、夫には夫の責任があり、妻には妻の責任があります。しかし、このメッセージは、すべて夫に向けて語られたものであり、妻に語られたものではありません。夫婦関係における妻の責任については一切触れていませんので、ご了承ください。夫が神さまの前に、また妻の前に、どのように立つべきかにテーマを絞ったメッセージです。

① 「あばら骨の叫び」 桐山塁

創世記の2章22節に、こんな言葉があります。「人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた」神さまがアダムのあばら骨を抜き取り、アダムの妻、エバを造られた時の言葉です。妻は、わたしたちの一部のような存在です。ですから、今日は、「あばら骨の叫び」というテーマでお話ししたいと思っています。あばら骨は叫んでいます。わたしたちにサインを送っているわけです。今日は、それに耳を傾けていきたいと思います。
実は、このためにアンケート調査を行い、夫婦の中で感じている問題意識について調べてみました。その結果を見ながらお話ししたいと思います。

Q1 夫の尊敬できるところ、好きなところを書いてみてください。

・思いやり深く、心優しい
・誠実であること、謙遜であること
・正義感が強い
・ユーモアのセンスがあること
・私に対して子供に対して寛容、おおらか、優しい、穏やか 私の話を聞いてくれる
・何かと教えてくれる時、わかりやすく、丁寧、細やかな配慮がある(大事も小事も)
・自分の興味あることについて語るとき、イキイキ輝いて少年のよう
・子供に対して親の考えを押し付けないこと
・仕事に対し、責任感が強く、不満を口にしない
・人を追い詰めない
・誰に対しても親切、やさしい、頼れる
・物事の把握力が正確
・きちんと働く

多くの妻は、男性の責任感の強さなどに特に尊敬を感じるようです。

Q2 今、夫に対して感じている不満を具体的に書いてください。

・イエスキリストを心から分かち合えない
・仕事優先になってしまいがち
・もっと自分のことを話して欲しい(感情を出して欲しい)
・何の問題が起きた時に、自分の考えを語らない
・子供に対して指摘できない(今の時代だから仕方がない)
・妻に家庭をまかせておけば、大丈夫との考え、態度
・離れての生活が長い為に、細かな点に気付かない
・感情表現をしない
・人の話をきちんと聞いていない
・私のことをもっとほめて欲しい
・理由を聞きたいと思って追求すると、うるさい、黙れと怒りだす
・自分の立場が悪くなると私のせいにする
・仕事のことで頭が一杯になっている時、他の大事な話も耳に入らなくなること(自分の世界に入る)
・家事を手伝って欲しい
・すごく短気

妻たちは、もっと夫の言葉を聞きたい、もっと分かち合いたいと思っている人が多いようですね。

Q3 現在において、また過去において、夫の行動や言葉によって傷ついてことがあるでしょうか?

・無関心の態度
・「君と僕とは合わない」
・行動や言葉ではなく、黙り込む。突然そこからいなくなる。帰ってしまう。
・パートナーとしてみてくれなかったこと
・大事な問題を話してくれなかった
・ほんとうのことをはなしてくれなかったこと
・じゃあ、何がしてほしいの?とまるでわがままな人のように扱われる
・威圧的な態度
・話の最中に出て行ってしまう

Q4 これからの夫婦関係で、夫に期待することはどんなことですか?

・夫婦や家族の中で決めたことは、率先して行動に移して欲しい
・夫婦としての対話がしたい
・自由な時間が使えるから家事に少し関心を持って実践して欲しい
・物事の決断を下して欲しい
・主を仰いで男性として、夫としてリーダーとして立ってほしい
・男性、女性の違いを認めて協力し合って生活してゆきたい
・表面的なことだけではなく、内面の問題を分かち合いたい
・コミュニケーションを細かいことまで取り合いたい
・悩みを共にして欲しい
・愛情をちょっとしたしぐさでも、表現して欲しい(外国人のようにとはいいませんが)これがあれば殆どのことはカバーされますよ
・妻の見せかけの行動にだまされず、神に従ってほしい

もっと積極的にリーダーシップを発揮してほしいと思っている妻が多いようですね。また、家事など、実際的な助けが欲しいという妻も多いようです。また、問題を解決しようとするよりも、共に悩んでほしいと思っている傾向があるようです。男性はすぐ方法論を提示してしまいがちですが、妻は「そうか、悲しんだね」という一言を求めているようですね。

妻にとって、夫とはどのような存在なのか?

まず、聖書から、妻たちにとって、夫とはどのような存在なのかを見ていきたいと思います。聖書を見ましょう。エフェソの手紙5章23節です。「キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです」と書かれています。教会の頭はキリストです。ですから、教会はキリストに依存しています。教会にとって、キリストは救い主であり、すべてのすべてである存在です。そして、妻にとってもそうなのです。妻にとって、夫とはすべてのすべてである存在なのです。そのキリストと教会の関係を、妻と夫の関係にあてはめて考えてみましょう。

①完全に頼れる存在

まず、教会にとって、キリストとは、完全に頼れる存在です。問題がある時、教会は祈ります。完全にキリストにより頼んでいきます。同じように、妻も問題を感じる時、完全に夫に頼るわけです。

②自分を満たし、成長させる存在

教会は、キリストにあって、満たされ、成長していきます。妻も、そのように夫から満たされ、夫によって成長をうながされる存在なのです。わたしもこの点において弱さを持っていました。わたしの妻は、去年、息子を出産したのですが、そのあと体調を崩し、精神的にも落ち込む日々が続きました。その時、わたしはわたしで教会の働きに忙しく、妻はわたしに頼ることができませんでした。わたしによって満たされることが全くなかったのです。そのような時期が出産から半年ほど続きました。そのために、妻は成長するどころか、おかしくなるぐらい苦しんでいました。妻は、夫を通して命を受けていく存在です。ところが、その時わたしは、姉妹たちとの交わりが妻に必要な助けになると思っていました。また、妻がデボーションの時間をもてるようにサポートすれば、妻は成長できると思いました。そのためには、何でもしようと思い、実際的に仕事を減らして家事を手伝ったり、そのための手助けをしました。しかし、いくらそのようなことをしても、妻はますます疲れ切って、混乱してしまいました。妻も何かがおかしいと感じていたようです。こんなにいい交わりが与えられているのに、どうしてだろう?
確かにわたしは皿洗いをしました。子どもと時間を過ごしました。しかし、妻を満たすことをしなかったのです。姉妹たちと交わっていれば、デボーションをすれば、妻は満たされると思っていました。しかし妻は、教会がキリストによって満たされるように、妻はわたしから満たされなければならなかったのです。

③救い主のような存在

夫は、妻にとって、生死に関わるような存在です。非常に夫に依存しています。夫次第で良くも悪くもなるわけです。夫が立つか、夫が立たないかということが、妻の命に関わってくるのです。もし、キリストがいないならば、それは教会の命にかかわる問題です。キリストがいなければ教会は生きることができません。それと同じように、妻たちにとって、夫がどのように生きているかというのは、自分の命にかかわる問題なのです。妻を幸せにすることができるのは夫だけなのです。妻の幸せは、夫にかかっているのです。でも、「妻と神様との関係も大事じゃないでしょうか?」と思いますよね。それは、とても大事なことです。そのとおりです。しかし、神様は夫を通して命を妻に流そうとしておられます。(もちろん、独身の女性は違いますが)神様は、妻を直接満たすよりも、夫を通して満たすように夫婦関係をデザインされているのです。ですから、夫としての責任、夫としての使命、それは、妻にとって大きな問題なのです。だから、妻たちは叫ぶわけです。皆さん、奥さんに突き上げられたことはないでしょうか?わたしは、ずっとそう感じています。「わたしをどうにかしてください!子どもをどうにかしてください!」そのように妻たちは叫びます。それは、当然のことなのです。妻たちにとって、それは自分の命にかかわる問題だからです。命がけで夫に向かっていくのです。ですから、夫たちは目を覚まさなければいけません。教会がキリストに向かって、「主よ助けてください!」と求めるように、妻たちは夫に求めていくのです。

妻と夫の関係を妨げるもの

では、何が夫婦の関係を邪魔しているのでしょうか?妻に流すべき、神様の命を妨げているものは何でしょうか?いくつか見ていきたいと思います。

①沈黙の問題

まず、アンケート調査を見ても分かりますが、夫たちの沈黙の問題があります。聖書を読むと、これはとてもよくわかります。創世記3章6節です。「女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた」サタンがエバをだます箇所ですね。このとき、エバは一緒にいた男に渡したと書かれています。つまり、エバがサタンに誘惑された現場に、アダムはいたわけです。つまり、サタンとエバのやりとりをアダムは聞いていたのです。アダムは、これは神様に逆らうことだということがわかっていながら、指摘しなかったわけです。これは、アダムの沈黙です。本質的な、命にかかわる問題が起きているにもかかわらず、男は黙ってしまいます。立ちあがろうとしません。これは、罪がこの世界に入る前の出来事です。この沈黙してしまう弱さが、わたしたちの中にもあります。わたしたちは、この弱さをはっきりと認識したいと思います。男は黙ってしまう生き物だということです。そして、それが、妻の命に大きな影響を及ぼしているということです。アンケートの中にも、話していると、「うるさい、黙れ」と怒り出すという意見がありました。これも、沈黙です。妻が話したいのに、怒って話を終わらせてしまうわけです。また、もっと自分の感情を話してほしいという意見がたくさんありました。これも、男性の沈黙です。
わたしも、この沈黙をずっとやってきました。だんだん妻の突き上げに耐えられず、苛立ってくるわけです。そうすると、早く寝たりします。「今日は疲れた、ちょっと頭が痛いな」と言ってみたりするわけです。でも、実際にはそんなに痛くないわけです(笑)。そのように、「もうやめてくれ!」と自分の殻に閉じこもろうとします。わたしはずっとそれをやってきました。妻はフラストレーションがたまって、夜一人で泣いていることが何回もありました。わたしも、その声が聞こえてきますから、寝たくても寝れないわけです。何回も寝返りをうっても、妻の鼻水をすする音が聞こえてきます。
このように、男が沈黙に入ると、問題は解決しません。そして、妻の怒りを引き起こします。「どうしてあの人はこの時に立ってくれないんだろう?」そのようにして、妻は夫との一体感を感じなくなっていきます。妻は疎外感を感じます。寝入る夫を見て、妻は一人で泣き、孤独を感じているのです。沈黙は、それだけで終わるのではなく、様々な悪影響を及ぼします。

②消極的な態度

二つ目は、消極的な態度です。これは、家庭内における存在感の問題です。テモテの手紙3章4節に、教会の監督についての基準が書かれています。「自分の家庭をよく治め、常に品位を保って子どもたちを従順な者に育てている人でなければなりません」つまり、夫は家庭において積極的にならなければならないことを、聖書は教えているのではないでしょうか。わたしは、家庭のためにアイディアは出します。ある時、毎月第一火曜日は子どものことについて話す日にしようと決めました。しかし、それを実行したのは一回だけでした。わたしが主導権をとらないからです。でも妻はそれを覚えていて、「今日、そのことを言い出してくれるかな」と期待しています。でも、わたしは忘れています。ですから、妻はいらいらしてきて、不機嫌になってしまいます。で、わたしはそのまま寝てしまいます。妻は何に対して不機嫌になっているのでしょうか?家をよく治めていない夫の姿にですよね。積極的なリーダーシップをとらないことで、このような問題が生じてきます。会社の社長が、言ったことをやらないでいると、部下は困ってしまいます。社長に対する信頼感を失っていきます。それと同じことですね。不信感が生まれます。その言葉が信頼できなくなっていきます。「これやろうよ!」と夫が言ったとしても、「ほんと?そんなこと言っても、実際はやらないんじゃないの?」と思います。ですから、反抗的になってしまいます。忙しくて、家にいないということも、ある意味消極的な態度ですよね。

妻と夫の関係を強めるもの

では、逆に夫婦の絆を強めるために必要なことについてみていきましょう。

①コミュニケーション

企業では、危機管理において、状況をはっきりと把握する必要があります。そのためには、各部署とのコミュニケーションがとても大事になってきます。どこにどのような問題があり、痛みがあるのか、まず知らなければなりません。知るためには、コミュニケーションが必要です。
妻たちは、いつも「知ってほしい!」と思っています。問題を解決してほしいのではなく、その問題を知ってほしいと思っているのです。わたしがこれに気づいたのは、やっと半年ほど前のことです。あることについて話していて、わたしはこう言いました。「そうか、要するに、僕がその問題を理解していなかったことが問題だったんだね」すると妻は、「そうそうそう!」と言いました。皿洗いをしてほしいとか、そういうことじゃない、ただ、自分が苦しんでいること、それを理解してほしい、その苦しみを共有してほしい!それが妻の叫びだったわけです。ローマの手紙12章15節に「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」と書かれています。泣く人と共に泣くためには、まず何のために泣いているのか知らなくちゃいけません。よく知れば、感情が伴ってきます。妻の苦しみを知り、それに心を向けていくならば、夫もその苦しみを感じ始めるのです。自分の体が痛んでいれば、それを感じるように、妻が痛んでいれば、夫はそれを感じます。二人は一体だからです。でも、コミュニケーションがない場合、その部分が分断されています。このコミュニケーションが回復するだけで、どれほど多くの夫婦の関係が強められることでしょうか。
わたしも、このことに気づいてから、毎晩妻と話すようにしています。昨日の夜も、そのように話しました。メッセージの準備もあったのですが、妻と話す時間を持ちました。今までは、何かしながら話すことも多かったのですが、それをやめました。妻に集中するようにしました。妻も、最近はそのために昼間に話すことをメモするようになったのです(笑)。子どもの問題、自分の感じていること、家のこと、いくつかのことをまとめているのです。わたしは、それについてわからないことはわからないと言います。アドヴァイスできることはアドヴァイスします。そのようにしたら、妻は「最近、すごく楽になってきた!」と言ってくれました。今までは、それを全部自分ひとりで負ってきたと言ったのです。わたしと話すことで、重荷を下ろすことができたわけですね。教会とキリストの関係と同じです。教会も、問題が起こったとき、キリストに祈ります。そして、それによって次にどうすべきか、判断していきます。一度、キリストのもとに重荷を下ろす必要があります。そうしないと、教会はすぐつぶれてしまいます。妻も、夫に一度重荷を下ろしたうえで、自分のやるべきことを判断していきたいのです。コミュニケーションを深めていくと、妻との絆は強くなっていきます。
妻の心に集中し、聞き上手になりましょう。わたしたち夫は、とりあえず結論をたたきつけてしまう傾向があります。でも、その前に、聞くことが大事です。それが夫の役目です。キリストも教会に対して、「何でも願いなさい」と言います。それと同じように、夫も聞くことから始める必要があります。

②自己犠牲

次に大事なものは、自己犠牲です。教会は、キリストの自己犠牲のもとに成り立っています。キリストは、何一つ悪いことをしていないのに、わたしたちのために犠牲となってくださいました。フィリピの手紙2章6節です。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にしてしもべの身分になり、人間と同じ者になられました」キリストは、神であるにもかかわらず、人間であるわたしたちよりもさらに低い者となられました。神であるというプライドを捨てて、低い者になられたという自己犠牲の姿、それが妻との関係を強めます。イエスさまのリーダーシップの象徴は、弟子たちの足を洗った姿ではないかと、わたしは思います。低い者、仕える者になること。妻の足を洗う人になること。そのように、妻の下になるリーダーシップですね。それが自己犠牲です。
それを具体的に行動するとすれば、それは、妻より先に謝る夫になることではないでしょうか。それは、妻の要求をただかなえてあげるということではありません。神様の前で、自分の罪を認めれる人になるということです。妻の機嫌を取りたいために謝るのではありません。自分は正しいというプライドを捨てて、神様の前にじぶんは罪人だと認め、だからこそ妻に赦してもらおう、というステップを踏む必要があります。「僕が悪かった、僕が君を傷つけた」と言える人になりましょう。妻が100パーセント悪かったとしても、わたしたち夫が低くなるべきです。時折り、わたしも妻に謝らせるために謝ることがあります。「僕が謝ったんだから、君も自分の悪いところを認めなさい」というような調子ですね。
心からではなくて、その先を見越してとりあえず謝罪の言葉を出すわけですね。そんな調子では、謝っても何も変わりません。一週間もすると、また同じことを繰り返してしまいます。どうしてでしょうか?ほんとうに低い者となっているわけではないからです。その場を逃れるために謝っているだけだからです。自分を犠牲にしていません。自分のプライドを捨てていないのです。変わっていないのです。
わたしたち夫は、低くならなければなりません。イエスさまが低くなられたことを覚えましょう。
わたしたちは、妻に対して絶大なる存在です。妻の問題も、すべて夫にかかっているのです。今の皆さんの奥さんのことを思い浮かべてみてください。奥さんは今、どういう状態でしょうか?その状態は、実はわたしたちの状態をあらわしています。妻の叫びは、わたしたちの問題から始まっている叫びです。
その叫びをまず受け止めたいと思います。教会がうまくいくと、キリストが栄光を受けます。教会が失敗すると、その失敗はキリストが担います。妻の喜び、感謝、それはわたしたちの冠になります。箴言に、賢い妻は夫の冠と書かれています。同時に、妻の問題、苦しみ、怒り、それはわたしたちが負うべきものなのです。
今日から、「それは妻の問題です」とか、「それは妻と神様との問題です」ということを言わないようにしましょう。これは禁句です。逃げなのです。イエスさまは、わたしたちが問題を抱えている時に、「いや、それは彼と神様との問題ですから」とは言いません。積極的にその問題を担ってくださいます。わたしたちの罪までも担ってくださいます。それと同じように、夫は妻の問題を共に担って、共に苦しむ必要があります。わたしも、間違っていました。「妻のデボーションの時間が祝福されれば、この問題を乗り越えられるはずだ」と思ってみたり、「神様、妻に聖霊の力を与えてください」と祈ったりしました。でも、それはピント外れな祈りでした。もちろん、力は神様から来るものです。でも、神様は夫を通して、妻にその力を与えたいと思っておられるのです。

② 「妻を尊敬する」 清野基

今回は、奥さんを尊敬することについて考えてみたいと思います。僕たち日本人の文化には、女性を一人の人間として尊敬するという概念がありません。長い時代、女性は男性の道具のように扱われてきました。ですから、現代においても、多くの夫たちが、無意識に妻たちをそのように扱ってしまっています。

この世のリーダーシップと、聖書的なリーダーシップ

聖書によれば、夫は妻のリーダーとして、家族のリーダーとして神様に立てられています。コリントの手紙第一11章3節に、「男の頭はキリスト、女の頭は男」と書かれています。夫は、妻のリーダーなのです。しかし、ここで注意しなければならないことがひとつあります。この世でいうリーダーと、聖書でいうリーダーは違うということです。この世でのリーダーとは、支配する存在です。自分の権威の下にいる人たちを使って自分の利益を求めようとします。権威の下にいる人たちから尊敬されることを求めます。僕たちも、妻に対してこのようにふるまっていないでしょうか?支配しようとするわけです。自分の思い通りに妻を動かそうとします。妻によって、自分が得しようとします。でも、それは、聖書的なリーダーシップではありません。聖書的なリーダーシップとは、桐山兄弟の話にもありましたが、イエスさまのように、下になって仕えることです。弟子たちに対して権威を持っているイエスさまが、弟子の足を洗ったように、聖書的なリーダーは、仕える人でなければなりません。自分の権威の下にある人たちを、守り、愛し、尊敬するのです。この世でのリーダーは違いますよね。自分の権威の下にある人たちに向かって、「わたしを守りなさい!わたしを尊敬しなさい!」と言います。聖書のリーダーシップは逆なのです。
聖書には、「愛は自分の利益を求めない」と書かれています。この世ではリーダーが王様であり、皆がリーダーのために働きます。しかし、聖書では、リーダーが権威の下にいる人たちのために働らきます。マタイ20章27節でイエスさまは、「いちばん上になりたい者は、皆のしもべになりなさい」と言いました。僕たちは、奥さんのリーダーですね。大黒柱という言葉があるぐらいで、それはよくわかっています。しかし、そのリーダーシップの発揮の仕方を間違ってしまいます。下に入るのではなく上に立って支配しようとします。常に上に立つ目線があるわけです。皆さんの、自分の奥さんに対する目線はどうでしょうか?奥さんをどのような位置に置いていますか?自分の目線と比べると、奥さんはどれぐらいの高さにいるでしょうか?

愛し、慈しむ

聖書では、2回にわたって、夫は妻を尊敬するようにと命じています。まず、テサロニケ第一4章3節です。「実に、神の御心とは、あなたがたが聖なる者となることです。すなわち、みだらな行いを避け、おのおの汚れのない心と尊敬の念を持って妻と生活するように学ばねばならず・・・」とあります。次に、ペトロ第一3章7節です。「同じように夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません」尊敬すること。一人の人間として、神様から与えられた大切な宝物として、尊敬すること。桐山兄弟が出してくれたアンケート結果を見てみても、もし夫がほんとうに妻を尊敬していれば、出てこない叫びではないでしょうか。奥さんを尊敬しているならば、僕たちは奥さんの話をよく聞くはずです。基本的に、僕たちは尊敬していない人の話は耳に入りませんよね。尊敬していれば、その人の目を見て、その人の話を注意深く聞くはずです。尊敬していれば、話の途中で出ていったりはしません。最後までその話を聞き、その意見を敬おうとします。沈黙、不一致、怒り。それは、妻を尊敬していない夫の心によって生まれてくるものなのです。
半年ほど前のことですが、僕も妻に「あなたはわたしを尊敬してくれてない!わたしをばかにしている!」と言われてしまいました。僕は、それがよくわかりませんでした。僕としては、子育てもよくやっているつもりでした。家事も手伝っているつもりでした。「僕は、夜10時に帰って来ても、皿洗いをしている!それからでも君の話を聞いている!時には仕事を減らして、家族と過ごすようにしている!いったい何が不満なんだ!」と思ったわけです。妻は、こう言いました。「それをしてくれてるのはよくわかる。それはうれしいし、感謝すべきことだけど、でもそれをやっている姿から、自分を侮辱するオーラを感じる」と言われたのです。つまり、「お前は家事ができていないじゃないか!」という侮辱を感じるというのです。「やってあげてるじゃないか!」というオーラです。その時、僕は上に立っていたわけです。仕えているように見えても、実際はそれをしていない妻を馬鹿にしていたのです。そして、僕は「いったい何が不満なんだい?」と言いました。実は、これは妻の上に立って妻を馬鹿にしている究極的な表現です。それは、「僕は間違っていない!僕が正しくて、間違っているのは君のほうだよ!」という意味ですよね。もちろん、家事を手伝うのは大事です。それはいいことです。でもそれを、妻を愛して、守って、尊敬する思いでするのではなくて、「僕はおまえのためにやってあげてるんだぞ!」という傲慢な思いからやっていたのです。ですから、「そうか、それで傷ついていたのか」とわかって、謝りました。最初は、僕は全然謝る必要を感じなかったのです。「これだけやっているのに、なんで感謝しないんだ!何で不満があるんだ!」と思っていたわけですから。でも、僕は間違っていました。僕は傲慢だったのです。
さて、自分のこととして考えてみてください。大事なことは、皿洗いをする、しないではありません。それぞれの家によって、家事のことは全然違います。ある人はする必要がありますし、そうじゃない家もあるでしょう。大事なことは、妻を一人の人間として愛し、尊敬し、大切な存在として慈しんでいるかどうかなのです。イエスさまは、僕たちを愛し、慈しんでくださっています。弟子たちは、「誰が一番偉いか」といって議論したり、お互いに腹を立てたり、いつもそんな感じでした。でも、イエスさまはその弟子たちを愛されました。最後の晩餐の時、イエスさまは弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれたと聖書に書かれています。そのあと、ペトロはイエスさまを否定しますし、みんな逃げてしまいます。でも、イエスさまはその彼らを馬鹿にせず、愛し抜かれました。僕たちはどうでしょうか?妻の行動、言動の一つ一つを見て、いちいち苛立ってしまうことがないでしょうか?そこで問題なのは、その妻の行動ではありません。ぼくたちが、その表面的な行動や言動ではなく、妻を一人の人間として愛し、慈しんでいないことから、その苛立ちは起こってくるのです。

日本人男性の壁

これは、僕たち日本人の男性にとっては、想像もつかない概念です。そのような夫婦の姿を見たことがありません。自分の両親のことを思い浮かべてみてください。母親を本当の意味で尊敬し、愛し、守っている父親の姿を知っている男性はこの日本に何人いるでしょうか?僕たちのなかには、妻への尊敬を妨げる、分厚い壁があります。僕たちはその壁を崩さなければなりません。

夫婦の木

夫婦の関係を、一本の木にあらわしてみましょう。(図1参照)

今まで、夫婦の間に、いろいろと悪い実(問題)がなってきました。不満、不一致、怒り。皆さんも、これらの問題を解決しようと頑張ってきたと思います。妻に不満があるなら、なんとか解決してあげよう、不一致があるならお祈りしてみよう、そのようにやってきたのではないでしょうか。でも、そのような作業は、実を取り除くことしかできません。植物は、種から芽が出て、茎ができて、実ができます。
我が家では、春にしそを植えました。すると、しそができました。できたしその葉をちぎってもちぎっても、どんどん新しいしその葉がでてきます。僕たちの結婚生活においても同じことが起こります。不一致や不満、それを取り除いても、また出てくるのです。いくら努力して取り除いても、同じ実が出てきます。僕たちが注目しなくちゃいけないのは、その実ではなく、根っこなのです。どのような根からその実が出てきているのか、それを知らなければなりません。(図2参照)

木には必ず根っこがあります。僕たちの夫婦関係にも、根があります。もし、僕たちの心に妻を裁く心、見下す心、妻に対して傲慢な心があるならば、その根によって不一致が生まれ、怒りが生まれてくるのです。夫婦の間に問題が起こる時に、それだけを注目しないでください。「どうしてそのような問題が起こってしまったのだろう?」ということのほうに目を向けてほしいのです。今日はその根、つまり奥さんを尊敬しない、奥さんを見下すという根を見ていきたいと思います。
先ほどの僕と妻との話に戻りましょう。僕は、妻を裁いていたと思います。家事をするという行動をしてはいましたが、台所で皿洗いをしながら、背中から妻に向って「何やってるんだ!もうちょっとしっかりしろよ!」というビーム光線を発していたわけです。つまり、裁いていたのです。傲慢だったのです。それが根っこにあったために、妻の怒りを引き起こし、不一致が生まれたのです。まるで、部下の不手際のしりぬぐいをいらいらしながらやる上司でした。
僕たちは、自分たちの中に奥さんを尊敬しない、傲慢な心があることを知らなければなりません。イエスさまは、「心の貧しい人は幸いである」と言いました。自分の心に問題があると気づく人、自分の心が傲慢だと気づく人は幸いなのです。
では、逆に考えてみましょう。もし、僕たちの心に妻への尊敬と愛があり、それが根となるならば、どのような木が育ち、どのような実がなるのでしょうか?(図3参照)
もし、妻に対する尊敬があるならば、純粋なやさしさが生まれます。一致が生まれます。必要な助けをすることができます。愛という根があるならば、愛の実がなるのです。傲慢の根があれば、当然悪い実がなるのです。僕も、今までは妻の表面的な実ばっかり見ていたと思います。奥さんに「そのような言い方はやめてほしい」と言われたとしたら、「じゃあ、やめるよ」と言っていました。それですましていたのです。でも、それは本当の解決にはなりません。僕が見なくちゃいけなかったのは、根の部分だったのです。
単純に「大好きだよ!」というのを超えた、心の奥底にある奥さんへの思いは何でしょうか。心の奥底にある妻への態度は何でしょうか。尊敬すべき、愛する存在としてみているでしょうか?それとも上に立って見下しているでしょうか?

弱いとわきまえて

聖書は、僕たち夫に、妻を弱い者だとわきまえて尊敬しなさいと言っています。妻は、確かに夫より弱い存在です。肉体的にも、精神的にも、妻は夫よりも弱い存在です。この聖書の命令は、究極の愛とも呼べるものです。つまり、「弱いとわきまえて」尊敬しなさいと言うのです。これは、人間の頭では理解できない愛の奥義です。
実は、イエスさまもそれをしてくださいました。僕たちが弱い、どうしようもない罪人だと知っていながら、十字架にかかることによって、僕たちを愛してくださいました。ぼくたちのしもべとして、ご自分の命を捨ててくださいました。僕たちが弱いと知りながら、愛してくださいました。僕たちは、妻を愛するために、そのイエスさまのような愛を持てるように、神様に祈らなければなりません。料理ができるから尊敬するとか、性格がいいから尊敬するとか、それを超えた愛です。何もできなくても、神様が造られた一人の人間として、神様が下さった宝物として尊敬するということ。奥さんがわがままだとしても、不従順でも、ヒステリックでも、愛して尊敬するのです。イエスさまもそうしてくださいました。僕たちが不従順な時でも、イエスさまは愛してくださいました。そのように愛するのです。それが、神様の「妻を尊敬しなさい」という命令に従うことなのです。
これは、無条件の愛です。「~~ができるから愛する」「~~ができないから愛さない」のではなく、自分の宝物として無条件に愛する愛です。

悔い改める

僕たちのなかにある苦い根を取り除くために、僕たちは自分の傲慢さを神さまの前に悔い改める必要があります。へりくだって悔い改めるならば、十字架によってその罪が取り除かれます。そして、新しい心を神様に求める必要があります。そして、妻にも謝りましょう。自分の傲慢によって、今まで奥さんを傷つけてきたこと、自分が傲慢だったこと、それを口に出して謝りましょう。その悔い改めと赦しが、悪い根を取り去り、新しい良い実が生まれるために必要なことなのです。
小学校の時の遠足を思い出します。遠足から帰ってきて、校庭に整列します。すると、先生が「家に帰るまでが遠足です!」とよく言っていました。今日は夫セミナーです。僕はこのように言いたいのです。「家に帰って、妻と向き合ったときからが、ほんとうの夫セミナーです!」どうでしょうか?家に帰って、奥さんにどのような態度を取るでしょうか?
僕自身も、家に帰ったら、改めて妻に謝りたいと思います。何かののしる言葉を言ってきたわけではありません。でも、妻に対する僕の心の態度は、正しいものではありませんでした。ですから、妻の態度がどうであれ、妻にわびたいと、今日桐山兄弟の話を聞いていて、また自分で話していて思いました。
日本には、ずっと聖書的な価値観がありませんでした。多くの家庭がそうだったのです。妻に限らず、一人の人間を一人の人間として尊敬するという概念は日本人にはなかったのです。でも、クリスチャンは新しくされた存在です。神に救われた者たちは、一人一人の人たちを神様に造られた大切な存在として、愛さなければなりません。夫婦の関係は、それを実践するチャンスですね。僕たちの価値観が変えられていくトレーニングルームです。神様の前にも、妻の前にもへりくだって悔い改めるかどうか、それが夫婦のきずなを強める鍵ではないでしょうか?
「キリストが教会を愛したように」愛する。そのためには、ぼくたちはイエスさまみたいにならなければなりません。夫であるならば、強制的にイエスさまみたいにならなければならないのです。祈りましょう。神様に新しい心をいただきましょう。